100周年
ごあいさつ
2018年、おかげさまで横浜新港倉庫は100周年を迎えました。
100年という年月で、これまで積み重ねてきた経験と知識を生かし、お客様から信頼いただける会社を目指してきました。
これからも、安全・安心をモットーにお客様のご期待に応え、さらに、積み重ねた経験に頼るだけではなく、初心を忘れず、時代とお客様のニーズに応えられるよう、常に新しい挑戦に取り組んでまいります。
今後とも、変わらぬご支援を賜りますようよろしくお願いいたします。
代表取締役社長
100年の歩み
株式会社横浜貿易倉庫・横浜船渠株式会社・横浜倉庫株式会社・株式会社横浜商品倉庫の共同出資により設立
1859年の開港以来、欧米の商人と日本の商人が交易する場として急速に発展した横浜。明治後期から大正初期にかけて新港埠頭が完成したことに加え、第一次世界大戦による造船業の活況によることなどから倉庫業のさらなる必要性が高まり、地元倉庫会社4社によって、1917年(大正6)横浜税関長に『倉庫用地使用許可』を提出、翌年1月に許可書が交付された。
新港埠頭内6,000坪の土地に倉庫7棟を建設
京浜倉庫連合会加盟
関東大震災によりすべての倉庫が倒壊・焼失
震源地(相模湾北部)に近かった横浜は被災率95%で、東京の73%に比べても、甚大な被害受けた。地震後の火災による被害が大きく、激震後は市内各地から火災が発生、水道管が破裂したため水道が使えない上に、道路には大きな亀裂が入り消防車が全く動けない状況であった。当時の長島支配人は手記に「震災の却火は建物以外に何物も持たなかった我社の建築物を金石までも焼尽し去ったのであった」と記している。
全借地4,751坪に仮倉庫建築完了
震災後、一番最初に再建に取り組んだのはD号倉庫で、同年11月22日、当社の復興倉庫としては最も早い時期に業務を再開した。
耐震耐火の鉄筋コンクリート造3階建倉庫(延坪数2,052坪)A号倉庫完成
1929年(昭和4年)10月、ニューヨーク・ウォール街において、株価の大暴落『暗黒の木曜日』が発生、世界的な大恐慌が始まった。開港以来、生糸の輸出が中心だった横浜は大打撃を受け、貨物の動きも止まり、倉庫は坪貸しの契約が目立つようになった。主な契約としては①家畜混合飼料及び同材料置場②写真機械等手入蔵置③発電所用3万5,000基ターボゼネレーターセット保管④大倉商事横浜出張所との倉庫専用契約⑤一ノ瀬回漕店と上屋専用契約⑥輸出缶詰打検場⑦政府米保管⑧生糸保管
左右田棟一会長就任
創立25周年記念
日本倉庫統制株式会社設立、左右田棟一会長 同社理事・横浜支社長就任
横浜大空襲により施設の大半を焼失
600に及ぶ敵機が焼夷弾を投下、午前中の2時間あまりで市内は火の海となり、消火後にあらわれたのは、見渡す限り瓦礫と焦土に化してしまった横浜の姿であった。当社でもC2号の二棟は焼け落ち、D号倉庫は灰となり、E号倉庫は内側が焼けコンクリートの外壁だけが残るという大きな被害であった。それでも、関東大震災の教訓を受けて建築した鉄筋コンクリートのA号倉庫とC1号倉庫の二棟が被害を免れることができた。
第二次世界大戦終戦とともに残存倉庫すべて接収。
昭和19年、当社の全倉庫事務所の総坪数5,863坪余だったものが、終戦を迎えた頃には2,856坪余となり、およそ3,000坪が戦火によって焼失してしまった。さらに、進駐してきたアメリカ占領軍は、横浜港と新港埠頭をはじめとする各埠頭及び倉庫などの施設を接収。接収率は約90%にも達し、以降、約10年もの間、新港埠頭は『CENTER PIER』として使用される。
当社にとって空白の10年間ではあったが、細々と行っていたのが税関貨物取扱人の業務であった。終戦後、しばらくすると外国貿易が行われるようになると、再び通関業務が必要とされ、改めて税関貨物取扱人免許状が下付されることとなり、当社も免許を受けて活動を開始した。
本社事務所を高島町日の出ビルに移転
E号倉庫(842坪)の接収解除を機に順次、倉庫を再建
本社事務所を中区海岸通り横浜貿易倉庫内に移転
創立35周年記念
E号倉庫の土地建物接収解除を受け、社内では、E号倉庫の大改修を行って営業再開の象徴とし、業界に打って出ようとの気運が高まっていた。創立35周年を迎えるにあたり、社歌・社旗などをつくるといった記念事業が実行された。
E号倉庫(782坪)補修工事完了
E号倉庫への入庫完了
2月2日、荷主である日本専売公社(現在のJT)による米国産輸入タバコを積んだ多聞丸が新港埠頭に接岸し、2,307樽がE号倉庫へ入庫。接収以来約10年、新港埠頭に民間貨物を積載した船舶が着いて埠頭の倉庫に入庫したことは初めてのことであり、当社だけでなく、横浜港全体の喜びとなった。
会社運営の根本方針であり、従業員服務の信念でもある『我等の信条』制定
我等の信条 横浜新港倉庫株式会社
我等は人生の半分を職場に於て過すものであるから、毎日を楽しく、そして生き甲斐ある仕事を精一杯に為し得たならば人生の半分の幸福を克ち得たものであると信ずる。
一、我等は国家社会に貢献する。
我等は我社の業務を通じ業界の先達たるの誇りを持って大いに国家社会に貢献しよう。
一、我等は信用を生命と心掛ける。
我等は常に会社百年の繁栄を念頭に置き、信用を以て我等の生命と心掛け、苟も信用保持の為には顧客の一、二を失うも敢えて辞せざるの責任と気概を持つよう心がけよう。
一、我等は和と礼を以て最大の徳とする。
我等は常に礼儀正しくし、協同と寛容の精神を培い、相互に人格を尊重し、「淡常」心を以て温かい友情の下、和気あいあいたる明朗なる雰囲気の醸成に心掛けよう。
一、我等は積極進取を旨とする。
我等は何事に対しても常に積極進取の態度をとり、青年の意気を堅持しよう。
一、我等は責任を重んずる。
我等は常に責任観念を旺盛にし、各自の責任と義務と権限を明確にして職責完遂に努力しよう。
B1号(344坪)・B2号(263坪)倉庫接収解除、全面営業再開
横浜港に到着した英国産織物の搬入にあたり、庫入荷役は直営方式で進むという方針のもと、課長1名と課員1名が買い入れたばかりのクレーン車を使い、原田組の手を借りて水切庫入を行った。輸入製品60トンがE41号に収まり、これが当社の営業再開第一号の倉入作業となる。
C号倉庫の機械設備完成、稼働開始
100トンのサイロビン4本、袋詰装置3セットなどC号倉庫の機械設備は当社独自の創作であり、小型ながらも当社が世に出すに足る設備であった。特に撤穀物の自動袋詰め装置の成功は、その後の当社経営の方向を示す点においても重要な意義を持つものとなった。すなわちC号の稼働によって、当社はサイロ投入と払出しの経験を持ち、一般普通倉庫から、穀飼類専門倉庫へと方向づけされた。
山下埠頭進出を決定
山下埠頭の建設工事は1953年(昭和28)から始まり、1963年(昭和38)に完成。当社はこの年の第3次募集に応募し、翌年に約500坪の敷地内諾の許可を得た。創業以来40年、当社は新港埠頭を離れたことがなく、山下埠頭への進出は創業以来の長い歴史の中での壮挙だったと言える。
B5号倉庫及び新港町事務所完成
左右田棟一会長・左右田俊夫社長就任
左右田社長・桜井取締役、欧米港湾視察
視察出張は、オランダ・ドイツ・イタリア・フランス・イギリスと渡り、アメリカ合衆国に入ると、シカゴ・ヒューストン・ロスアンゼルス・サンフランシスコを訪れ、主要港湾とその施設の倉庫、サイロを重点に視察した。特に着目したフランス・マルセイユの港頭のサイロは、1階は貨車の側線、2階を秤量室とするそのつくりから、後の山下サイロ構想の原型であると推測される。
横浜港の営業倉庫として初となる山下サイロ稼働開始
山下サイロに関しては、『日本倉庫業史』の中でも「倉庫業者による営業用ハンドリング・サイロの建設例としては、昭和39年9月に三井倉庫が神戸新港第5突堤に円筒型サイロを建設したほか、昭和40年1月の横浜新港による横浜港の艀吸場サイロ(略)がある程度であった」と記載されるほど先駆的な施設であった。
新港埠頭に鋼板製のB号サイロ完成、稼働開始
大黒埠頭に神奈川倉庫事業協同組合の倉庫完成
みなとみらい21計画に伴う新港町サイロ撤去の代替となる本牧新建材埠頭にセメント専用サイロ4基完成
みなとみらい21計画の進展に伴い本社を移転
倉庫の移転に伴い、新港地区にあった本社も移転。この年の11月と翌年2月、2回分けて中区本町の横浜第一ビルの2階と7階に移転した。当時はまだ海を見渡せるロケーションで、旧本社にも近い好立地だったが、新規事業を始めたことにより事業規模が拡大し、社員数も急増、2階と7階に分かれていた事務所を統合するために、2006年(平成18)には同町のセボン関内第二ビルに移転する。
新港埠頭の旧本社及び倉庫施設解体、撤去完了
大黒埠頭に冷凍・冷蔵・常温設備を備えた大黒埠頭物流倉庫完成
新たに建設した大黒埠頭物流倉庫は、大黒埠頭の第2期工事で整備された地区が代替地となり、そのうちの敷地面積約3,800坪に4階建(事務所部分5階建)、鉄筋造一部鉄筋コンクリート亜鉛メッキ銅板葺の倉庫である。1階が普通倉庫と冷蔵倉庫、2階と3階が低温倉庫と冷蔵倉庫及び冷凍倉庫、4階が常温倉庫という、当時としても全国で例を見ない複雑な構造を持つ倉庫となった。
左右田照夫社長就任
大黒埠頭総合保税地域の「横浜港国際流通センター」にYCC事業所を開設
横浜港国際流通センターは、輸入促進施設FAZ(Foreign Access Zone)地域に承認された横浜港やその周辺地域における物流の中核施設として、コンテナ化の進展や製品輸入増大等、国際海上物流の変化にあわせ、輸入貨物取扱機能の拡大・強化を図ることを目的に整備された国内最大の物流拠点である。このセンターでは、分譲と賃貸を行っており、当社はYCC事業所として201号4,270m²を借りた。
YCC事業所にてトランクルーム事業開始
YCC事業所では、契約書や経理伝票、技術資料、図面、カルテ、レントゲンフィルム、書籍などを保管の他、開設当初は輸入ワインの物流加工を請け負っていた。
また、ここから数年にわたり、マーケティングを含むFCビジネスに対する考え方、社内ノウハウの強化を目指し、異業種事業にも参入する。
本社をセボン関内第2ビルに移転
左右田照夫会長就任
本社を横浜平和ビルに移転
左右田憲一社長就任
創業100周年を迎える
100年が過ぎ、つぎの100年へ会社案内を一新
これからの100年へ